アプリ活用 ワープロ編


私は、1965年生まれ。1984年4月から大学生、1988年4月から社会人、となります。
時代背景を踏まえて読んで頂けたらと思います。


ワープロ専用機


ワープロの話となると、パソコン以前に「ワープロ専用機」のことから始まります。

大学生のころ、私は狭い下宿の部屋では図面を描く環境が整わず、 よく大学の製図室を利用していました。2〜3年生のころは土曜日が午前中だけの授業で、 午後はまるまる空いていたため、その時間はほぼ製図室にこもっていました。

製図室は基本的に「早い者勝ち」で、空いていれば誰でも使えるのですが、 次第に暗黙の了解で“自分の定位置”のような場所ができていきます。 私が半ば専用のように使っていた席のすぐ隣には、NECのワープロ専用機「文豪」がありました。 それが偶然だったのか、無意識にそこを選んだのかは、今となっては思い出せません。

その「文豪」は、製図盤と同じく学生が自由に使えるようになっており、用紙も完備されていました。 当時はまだ論文なども手書きが主流で、ようやく一部の新しいもの好きな学生がワープロを使い始めた時代です。 本体価格も少しずつ下がってはいましたが、それでも10〜20万円ほど。 自宅にワープロ専用機を持つ学生は少なく、まさに高嶺の花でした。 そんな中、ワープロを自由に使える製図室は、私にとって実にありがたい環境で、 「使わにゃ損、損」と心の中で思っていました。

私はというと、半日ずっと図面を描き続けるほどの集中力はなく、 休憩がてらワープロをいじっているうちに、これが“運命の出会い”となりました。

普通の学生は「こういう文章を作りたい」→「ではどう操作すればいいか」と目的に沿って学ぶのですが、 私は特に目的もないまま、メニューを片っ端から試しては「へぇ、こんなこともできるんだ」と発見を重ねていました。 その結果、いつの間にか主要な機能をほぼすべて使いこなせるようになっていました。 文書作成の目的があっても操作がわからず手が止まる人が多い中、私は先に機能を覚えたわけです。 文章を書く時は操作で悩まず内容に集中できるため、後から考えると、むしろ理想的な順序だったと思います。

やがて4年生になると、「卒業論文」か「卒業設計」を選ばなければなりませんでした。 私は迷った末に卒業設計を選びました。3年生までの必修単位は全て取得しており、 残るはこの設計だけで卒業要件を満たす状態となっていました。 卒業設計に打ち込む条件は整い、平日はほぼ製図のためだけに大学へ通う生活となりました。

最上級生ともなれば、周りの学生は、私と同じ学年かそれ以下、すぐ隣で「この操作、どうするんだっけ?」 という声が聞こえると、私はつい「それはね、こうして、こうやるんだよ」と教えるようになっていました。

中央揃えは〇〇〇〇、均等割り付けは〇〇〇〇、保存する時はフロッピーディスクを挿入して〇〇〇〇、 印刷する時は用紙をこうセットして〇〇〇〇……という具合です。 私が図面を書いている時間帯は、ワープロを使用する人たちの作業効率やスキルの向上が間違いなく行われていました。

私自身はみんなと同じ「単なる一利用者」にすぎないのですが、 いつの間にか質問される立場になり、もしかしたら“このマシン専属のインストラクター”と思われていたかもしれません。 今思えば、この当時から私は、コンピュータ技術者の才覚はあったのだろうと思います。


今となっては幻のワープロソフト


就職し、職場にはパソコンが導入されていました。 私の部署で使われていたのは、「オーロラ・エース」という、今となっては幻のワープロソフトです。

ある日、部長から「お前、こういうの得意だろ?」と言われ、書類作成を一手に任されることになりました。 当時はFD(フロッピーディスク)起動が当たり前、8インチの起動ディスクとデータディスク、2枚を駆使して作業します。 あの「ガッコン、ガッコン」という独特の音は、今でも耳に残っています。

実際に書類作成を任されてみると、それまでの状態があまりにも酷いことに気づきました。 必要に迫られた人が、慣れない操作で何とか文書を作っていたため、 ファイル名もラベルの付け方もバラバラ。中には意味不明なものもあり、 どこにどんなデータがあるのか、開いてみないと分からないという有様でした。

目的のデータを探すのに時間がかかり、「これなら最初から作ったほうが早いのでは?」と思うこともしばしば。 パソコンやワープロの操作よりも、データ管理の混沌との戦いのほうがよほど大変でした。

中でも印象的だったのは、印刷した紙の一部を直したいだけなのに、 元データの場所が分からず、最初から作り直したと思われるケース。 よく似た文書が二つ存在するのに、不自然な差異があり、どちらが正式版なのかも分かりません。 こうした“アナーキー”な状況が積み重なり、言葉にしにくい形で作業の負債となっていました。 そしてそのツケが、一気に私のところへ回ってきたのです。

データの品質はバラバラ。罫線を使いこなせていない謎の書類、レイアウトが崩れた稚拙な文書、 誤字だらけのオフィシャル文書……。 目を覆いたくなるデータを見るに見かねて、私は意を決しました。

全フロッピーディスクの全ファイルを調べ、同種の書類は同じディスクにまとめました。 各書類には必ず雛形を用意し、ファイル名やラベルの命名規則も統一。 その結果、「どのFDを使えばいいか」「どのファイルが目的か」が一目で分かるようになり、 文章作成も、雛形に必要な情報を埋めるだけで完成する仕組みにしました。 印刷時のズレもなくなり、誰が使っても安定した品質の文書が作れるようになりました。

せっかく整理しても、誰かが勝手に作業すれば元の木阿弥です。そこで、部長に「専任担当を置くべきです」と提案しました。 選ばれたのは、私の同期の女性(年齢は4つ下)。しばらく二人三脚で作業し、ワープロの操作からデータ整理まで、 一通り伝授しました。

彼女が正式に書類作成担当になってから、文書のリードタイムも品質も劇的に向上したと評判に。 もっとも、裏で私がどれだけ奔走したかを知る上司は、おそらくいなかったでしょう。

入社1〜2年、もう40年近く前の話です。今更そんなことどうでもいいんですけどね。
今となっては全て、ま〜ぼ〜ろ〜し〜!(ってIKKOさんか)。



パソコンもアプリも日本製のみの時代


ワープロ専用機の時代を経て、いよいよパソコンが本格的に普及し始めます。

そして、ワープロソフトといえば「一太郎」。 私にとってだけでなく、当時の世間一般もそう感じていたほど、国内シェアを一気に広げていきました。

マイクロソフトやNECに真っ向から対抗できた、唯一の日本企業――それがジャストシステムです。 ワープロの「一太郎」だけでなく、グラフィックソフトの「花子」、表計算ソフトの「三四郎」、 果ては「ジャストウインドウ」という独自OSもどきを出すほどの勢い。 中には「Windows 3.1より快適だ」と言う人もいたほどでした。

そして何よりも特筆すべきは、日本語変換システム「ATOK」、変換精度・学習能力ともに群を抜き、 他の追随を許さない完成度で、当時の日本人にとってATOKは“日本語入力の標準”という時代が続きました。

やがて国際標準化の波に押され、国産ソフトは徐々に影を潜めていきますが、 ここではその少し前――私が夢中だった「一太郎全盛期」の話をしたいと思います。

私が使い始めたのは一太郎Ver.3からVer.4.3に移る頃。 ATOKのバージョンは「一太郎のVer+3」という法則があり、たとえば、
 ・一太郎 Ver.3  → ATOK6
 ・一太郎 Ver.4.3 → ATOK7
 ・一太郎 Ver.5  → ATOK8
という対応でした。

さらに、「8TO7」「8TO6」といったツールを使えば、ATOK8を基盤にしながら ATOK7やATOK6互換の環境を作ることができ、私はそれをバッチファイルで統合して、 Ver.3〜5が自由に起動できる環境を構築していました。 今思えば、自己満足の極みでしたが(笑)、技術的な遊びとしては楽しかったですね。

一太郎 Ver.3  この頃はまだ素朴な感じですね

一太郎 Ver.4.3  ちょっとカラフルになった画面が懐かしい

一太郎 Ver.5  当時としては驚くべき水準のワープロでした

一太郎Ver.5は、完成度の高い名作でした。 以後も進化を続けましたが、私自身はそれ以上の恩恵をあまり感じませんでした。 むしろ問題はOSの進化のほうにありました。

MS-DOSからWindows 3.1へ移行すると一太郎Ver.6が必要になり、 Windows 95になると今度はVer.7が必要になる――。 要するに、OSの更新に合わせて一太郎もバージョンアップせざるを得ない状況でした。 私が使っていたのはVer.8あたりまでですが、 業務では次第にWordを使う機会が増え、「Officeに付いてくるから」という手軽さもあって、 いつの間にか自宅のPCからも一太郎は姿を消していました。

Windows時代の一太郎 Ver.6・7・8

それでも、ATOKだけは名残惜しく、 単体販売されているのを見たときは「やっぱり自分と同じような人がいるんだな」と感じたものです。 もっとも、実務では使う機会もなく、結局購入まではしませんでしたが。

Windows時代の到来とともに、Wordが“標準のワープロ”として地位を確立しました。 しかしどうも、私にはしっくりきませんでした。 テキストファイルを作るならエディタのほうが早く、 複雑な文書構成を考えるなら、むしろExcelの方が柔軟に感じたのです。 結果として「ワープロソフトそのものを使わなくなった」という皮肉な結末になりました。

今でも時々、Wordで作られた拡張子「.doc」のファイルを開くことがありますが、 そのたびに「なんで、こんなに不自由なものを使ってるんだろう?」と思います。



一太郎 Ver.2 痛恨のコピーミス


一太郎 Ver.3を使い始めたのは、すでに次の時代に移り変わりそうな頃でした。 それなのに、なぜか私は 一太郎 Ver.2 も持っていますし、さらに「サスケ」まであるのです。 おそらく、ジャンクショップで見つけて手に入れたものだったと思います。

ところが、ここで痛恨のミスをしてしまいました。

当時のソフトにはディスクプロテクトが施されており、 普通のディスクコピーはもちろん、私の自作ファイル化ツールでもエラーになります。 そのとき私は、単純に「ディスクが壊れている」と勘違いし、 ディスク全体ではなくファイル単位でコピーを取って、元のフロッピーを処分してしまったのです。

今あらためて実行してみると、起動時にエラー。プロテクトに引っかかって動作しません。
正しくは次の何れかを選択すべきでした。
 @元のフロッピーを残しておく
 AMAHARITO などのツールでイメージ化する
 BWIZARD のプロファイラを使ってプロテクトを解除したうえでコピーする

そう思っても、時すでに遅し。今では
 ・実機もFD媒体も、もう手元にない
 ・元のFDがMAHARITOでコピーできたのかも不明
 ・コピー可能としても、MAHARITOの形式2HD,DATを利用可能なエミュレータが必要
 ・それをベタイメージ化しようとしても、変換時か実行時に確実にエラーとなる

私の持っているWIZARDにも、対応するプロファイラはありませんでした。 当時の知識と技術では、もうどうしようもない状況でした。 知識・実力があっても最善を選択しなかったのを「ミス」というのなら、 これは「実力不足」と言った方が正解かもしれません。

もし今、本気で動かすとしたら、逆アセンブルして原因を特定し、パッチをあてるしかありません。 ですが、それをして動いたとしても、「なるほど、こういう感じだったのか」と懐かしむ程度のこと。 実利はまったくありません。

要は、どれだけの情熱をそこに注げるかという話になります。 今の私の一番の課題は「思い出を動かすことに価値を見出せるかどうか」です。


※いつかこんな画面が表示される日が来るでしょうか?


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